「沈黙―サイレンスー」

遠藤周作は、『沈黙』を書くきっかけについて触れている『切支丹の里』(中公文庫)の中で、拷問や死の恐怖にも屈服せず殉教した者を「強者」、逆に肉体の弱さから棄教した者を「弱者」とし、その「弱者」の悲しみや苦しみに思いをはせたとき、彼らを沈黙の灰の底に消してしまいたくなかった、「弱者」の物語を書くことが小説家である自分の仕事であり、文学とはそういうことを描くことであるといっている。
宗教間の対立で戦いが起きる現代にあって、殉教者を「強者」といってしまうことには抵抗があるが、過去のあの時代、貧しい暮らしの中でキリスト教の教えに心の平安を見出した人たちにとっては、拷問で命を落としても魂が「パライソ(天国)」に落ち着くのは、苦痛の後に喜びが待っていると信じられたのだろう。
だが、拷問される信者たちの苦しむ姿を目の当たりにした宣教師の苦悩は、彼等より深かったといえる。ロドリゴやフェレイラは、棄教してからどういう気持ちで日本にいたのか?
信じてきた神を表面上は裏切った彼らだが、心の奥ではずっと信じていただろうと、私には思えてならない。
それにしても、ここまで切支丹を弾圧する幕府側が怖い。人が信じるものをお上が決めるなんてもってのほか。国を治めるために利用される宗教ほど恐ろしいものはない。
信仰心のない私だけれど、命までも危険にさらされる宗教って何? と問わずにはいられない。
(2017年 アメリカ・イタリア・メキシコ映画 監督マーティン・スコセッシ)
by mint-de | 2017-01-26 14:35 | シネマ(た~ほ)