正月の音

私は郷里の北海道の正月を想うとき、幼い日の記憶の音、車のタイヤ・チェーンの音を思い出す。多分、母と一緒に正月用の買物にでかけて、行き交う車の多さに師走の賑わいを重ね、ひとときの華やいだ雰囲気を感じていたのだろう。

雪に包まれた静かな町に、ジャラジャラと響きわたる音は、豪快で、子供心に何か未知なるものへの畏怖を感じさせた。今は、雪用のタイヤだから、ほとんどあの音を聞くことはない。

私は二十年近く正月に帰省したことはなかったが、一人暮らしの父と正月を過ごすため、母と姉が相次いで亡くなってから、一人で帰っていた。

私が田舎の駅に着いて驚くのは、その静けさだ。駅からまっすぐ延びる道に、人影はない。ただ粉雪が、風に舞っているだけだ。食材を買える唯一のスーパーは営業をやめ、建物だけがそのまま残っている。町は、年々さびれていく一方だ。

父は、まるで近くの家から立ち寄った人を迎えるように、私を迎える。それが父流の挨拶だ。もともと寡黙で、かなり耳の遠くなった父とは、会話らしい会話はない。
静かな室内は、石油ストーブの上で湯気をあげるやかんの音だけが、時を刻んでいるかのようだ。
私は、その静けさに身の置き所がない。そして、亡くなった人の不在をしみじみ思い知るのだ。

私は、あまりにも静かな正月に戸惑いながら、あのタイヤ・チェーンの音とともに、湯気の立つやかんの音を、故郷の正月の音として胸に収めた。対照的な音の違いは、まるで人生の明暗のようだが、私は、その静けさも悪くはないと思っている。

数日の滞在で、私はまた人気のない道を歩いて駅に向かう。小さな駅舎の向こうには冬の陽に光る海が見える。美しい景色だといつも思う。そして、時の流れと静寂の深さに切なくなるのだ。

一両編成の列車に乗り、冬の海を眺めながら、父の姿に自分の老後を重ねて、私は故郷を後にする。いつか一人になったとき、私はこの町の静けさを思い出しそうな気がする。
 (2004年記)
by mint-de | 2007-09-27 12:10 | 記憶の鞄