碧草の風

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カテゴリ:シネマ(た~ほ)( 31 )

「沈黙―サイレンスー」

遠藤周作は、『沈黙』を書くきっかけについて触れている『切支丹の里』(中公文庫)の中で、拷問や死の恐怖にも屈服せず殉教した者を「強者」、逆に肉体の弱さから棄教した者を「弱者」とし、その「弱者」の悲しみや苦しみに思いをはせたとき、彼らを沈黙の灰の底に消してしまいたくなかった、「弱者」の物語を書くことが小説家である自分の仕事であり、文学とはそういうことを描くことであるといっている。
宗教間の対立で戦いが起きる現代にあって、殉教者を「強者」といってしまうことには抵抗があるが、過去のあの時代、貧しい暮らしの中でキリスト教の教えに心の平安を見出した人たちにとっては、拷問で命を落としても魂が「パライソ(天国)」に落ち着くのは、苦痛の後に喜びが待っていると信じられたのだろう。
だが、拷問される信者たちの苦しむ姿を目の当たりにした宣教師の苦悩は、彼等より深かったといえる。ロドリゴやフェレイラは、棄教してからどういう気持ちで日本にいたのか?
信じてきた神を表面上は裏切った彼らだが、心の奥ではずっと信じていただろうと、私には思えてならない。
それにしても、ここまで切支丹を弾圧する幕府側が怖い。人が信じるものをお上が決めるなんてもってのほか。国を治めるために利用される宗教ほど恐ろしいものはない。
信仰心のない私だけれど、命までも危険にさらされる宗教って何? と問わずにはいられない。
(2017年 アメリカ・イタリア・メキシコ映画 監督マーティン・スコセッシ)
by mint-de | 2017-01-26 14:35 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「ブルックリン」

新しい人生を求めて、アイルランドからアメリカへ渡った女性エイリシュの成長物語。
ヒロインを演じるシアーシャ・ローナンの真っ直ぐに見つめる瞳の美しさが、繊細な心をよく表していて印象的だった。
古きよき映画という雰囲気で、とても共感した。
1950年代、アイルランドの田舎で満足な仕事につけずにいたエイリシュは、姉とニューヨークにいる神父の計らいで、ブルックリンのデパートの仕事を得る。
不安な気持ちを抑え、新天地に向かったエイリシュだったが、やがて、ホームシックに。それでも簿記の資格を得るために学校に通ったり、寮の口うるさいけれど優しい仲間たちに支えられ、恋人もできて、次第にニューヨークの生活に慣れていくのだった。
しかし、ある日、アイルランドから悲しい知らせが届く。
恋人は、一時、故郷に帰るエイリシュに結婚を迫る。同意したエイリシュだったが、アイルランドに帰った彼女は指輪をはずしていた。
故郷、母、幼なじみ。人は、愛するものがあっても、自分の人生を生きるために、その場から離れなければならない時がある。後ろ髪をひかれる思いがあっても、そうできなければ、前に進むことはできないのだ。
彼女が、故郷でなかなか真実を話せないでいる気持ちが、ちょっと理解できなかった。
でも、それは自分の行動に迷いがあったから。古い因習を破ることで、自分に自信が持てるようになって、吹っ切れたということ。エイリシュが、ブルックリンが自分の生きる場所だと気づくためのステップだったのだ。
最初は、地味なフッションだったエイリシュが、だんだん明るくて華やかな服を身に着けていく様子が、彼女の心をよく表していた。
(2015年 アイルランド・イギリス・カナダ映画 監督ジョン・クローリー)
by mint-de | 2016-07-03 11:25 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「東ベルリンから来た女」

1980年の旧東ドイツが舞台。
恋人のいる西ドイツへの移住申請を却下された女医バルバラが、田舎の病院に左遷されてくる。
バルバラは、秘密警察に監視されながらも、恋人ヨルクと密かに会い脱出の機会を待っている。
病院の医師アンドレは、バルバラの事情を知りながら、彼女に好意を寄せ優しく接してくれる。
ある日、施設で働くステラという少女が脱出しようとして怪我を負い、病院に連れてこられる。
過酷な状況にいるステラに同情したバルバラは、彼女に親切に対応する。その結果、ステラはバルバラを頼るようになる。
ヨルクが手配してくれた脱出の日、バルバラの前にステラが現れた。
バルバラは、人として医師としてある決断をするのだった。

地味な映画である。緊張感のある展開を期待していたけれど、正直、ちょっと退屈した。
でも、かつての東ドイツに暮らした人々の大変さはわかる。何かあるとすぐに秘密警察がやってきて、部屋をチェックして身体検査をされるような日々。一度目をつけられると大変だ。
バルバラのラストの決断が、この映画のテーマになるのだろうけれど、そのシーンに物足りなさを覚えるのは私だけ? 私としては、ラストのあとにもう少しシーンを追加してほしかった。
バルバラのその後を描くことで、彼女の意志が鮮明に伝わり、よりインパクトがある気がするのだけれど…
アンドレの存在がバルバラの心に変化をもたらし、アンドレのようにその地で生きることも一つの生き方ではあると思った。
(2012年 ドイツ映画 監督クリスティアン・ペッツォルト)
by mint-de | 2013-01-22 15:18 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「別離」

「別離」  (2011年 イラン映画 監督アスガー・ファルハディ)

ファルハディ監督の脚本の上手さには、本当に感心する。
無駄のないセリフと、登場人物それぞれの言い分も「ごもっとも」とうなずきたくなるほど、会話が自然だ。
「彼女が消えた浜辺」と同じように、自分だったらどう行動するだろうと、思わず考えてしまうような展開になっている。
イランの社会制度は、私にはよくわからないけれど、ホームページのイントロダクションに「理解するためのワンポイント」というのが載っていたので、参考になった。

シミンは、娘テルメーの今後を考えて海外に移住したいと考えていたが、夫ナデルはアルツハイマーを患う父を置いてはいけないので、国を出たくはないと思っている。シミンは裁判所に離婚を申請するものの決着がつかず、当面、シミンだけが実家に戻ることに。
ナデルは、父の介護のために、ラジエーという女性を雇うことにする。
ある日、ナデルが家に戻ってくると、ラジエーはおらず父がベッドから落ちて倒れていた。
父をひどい目にあわせたと怒ったナデルは、ラジエーをドアから押し出した。階段に倒れるラジエー。
そして、その後、ナデルはラジエーが流産したと知らされる。ナデルは殺人罪で拘置されることに…

イランでは胎児でも何か月かたったら、「人」とみなされるらしい。
ラジエーは敬虔なイスラム教徒という設定になっているので、父親を浴室で洗おうとしたさい、聖職者に裸の男性を世話しなければならないと相談していたのには驚いた。
信仰心のない私には、宗教というものがあるばかりに、面倒なことが増えているように思えてならない。
でも、結果的には、そのラジエーの信仰心が、ナデル家の経済には幸いしたといえるのかも。

この映画では、「嘘」と「いわなかったこと」が、重要なカギになっている。
テルメーは、父に嘘をついてほしくないと思っている。でも、自分が問われたとき、思わず父を守る言葉をいってしまう。誰かを守るための嘘は許されるのだろうか?
夫に知られたくなくて、肝心なことをいえなかったラジエーが、一番哀れに思えた。

シミンとナデルの会話で、ナデルがシミンが国から逃げ出すのは弱さからだというシーンがあった。
この国にとどまるナデルに、監督の意志を見たように思ったのは考えすぎだろうか。
by mint-de | 2012-04-10 15:18 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「瞳の奥の秘密」

「瞳の奥の秘密」 (2009年 スペイン・アルゼンチン映画 監督フアン・ホセ・カンパネラ)

見終わった感想は、サスペンス映画というより愛についての映画だと思った。
愛する人間を失った者は、その不在にどのようにして耐えるのか?
愛する人がいるのに、愛を告げられないばかりに虚しい日々を送る者は、何をすべきなのか?

裁判所を定年になったベンハミンは、25年前の殺人事件にもとに小説を書き始める。
そのことを伝えに、ベンハミンはかつての上司イレーネのもとを訪れる。
イレーネと話すうちに、ベンハミンは自分がずっと隠してきたある感情に気付くのだった。

25年前の事件の被害者の夫リカルドは、事件後、犯人と思われる男を捜すため、市内の駅を回って男を見つけようとしていた。その夫の姿に打たれたベンハミンは、諦めていた事件を再捜査する。だが、男を逮捕したのに、テロリストの情報と引き換えに男は釈放されてしまう。
その時代の政情もあって、犯罪者の逮捕も釈放もかなりいい加減だったようだ。ベンハミンは正義を貫くタイプだったが、こういう時代に司法機関で働く者はかなり虚しい気持ちになっただろう。

犯人には死刑になるより生きて罪を償わせたいといっていたリカルド。
ラストの展開は衝撃的だが、そこまでするリカルドの気持ちを思うと、心打たれるシーンでもある。それを見たベンハミンは、やっと「不在」の意味と、自分がすべきことに気付いたといえる。
事件と愛の話を絡ませ、昔を回想するという構成が、作品をより印象深くしているような気がした。
by mint-de | 2010-08-20 15:48 | シネマ(た~ほ) | Trackback(4)

「トロッコ」

「トロッコ」 (監督川口浩史)

夫を亡くした夕美子は、二人の息子敦と凱(トキ)を連れて、台湾の夫の故郷に遺灰をもっていく。
そこは、戦前、日本人が住み、彼らが作った家や線路が残されている小さな村だった。
敦は、父から渡された古い写真を祖父に見せる。少年がトロッコを押している写真だ。
祖父はその少年は自分だという。
その場所を忘れてしまった祖父は、二人の孫を連れて、今もトロッコが残っている山へ向かう。

父を亡くした敦は、その死を受けとめられず、母には反抗的な態度をとってきたが、父の故郷で出会った人々やトロッコに乗せてもらう経験をとおして、少し大人になる。母の夕美子は、一人で子どもを育てていくことに不安や気負いがあって、兄の敦に対しては厳しい態度をとってしまう。
そんな夕美子や子どもたちを温かく見守るのは、台湾の祖父母たちだ。
日本の統治時代には日本語を強要され、無理やり日本名まで名乗らされ、祖父は日本兵として動員までされたのに、日本からは何の補償もしてもらえない。日本に憧れていたという祖父は、ただねぎらいの言葉がほしいだけだとつぶやく。
台湾の人々が話す日本語が、とても優しく響いてくるのはナゼなのだろう?
つらい体験をしているはずなのに、彼らの話す日本語は、とても丁寧で穏やかだ。
テーマは少年の成長と家族の再生なのだが、私には、台湾の人々の優しさが、しみじみと伝わってくる映画だった。
by mint-de | 2010-05-29 19:32 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「パーマネント野ばら」

「パーマネント野ばら」(監督吉田大八)を観た。正直いって、前半はかなり退屈な映画だった。
菅野美穂演じる主人公なおこが恋している、高校教師カシマ(江口洋介)がどういう存在かわかるまでは。
彼との関係がもっと早い段階で明らかにされて、なおこの苦悩をもっと深く描いていたら、もう少し違った映画になった気がするのだけれど…

離婚して実家に戻ったなおこと娘のもも。なおこは、母まさ子のパーマ屋を手伝っている。
町に一軒しかないパーマ屋には、男運に恵まれない女たちが集まってくる。
なおこの友だちのみっちゃんとともちゃんも、男には泣かされている。
でも、みんな愚痴はいうけれど、それぞれ明るく元気!
恋は、しないより、しているほうがマシなのだ! 
ともちゃんは、死んだペットやだんなの形見を山に埋める。ともちゃんはいう。
人は二度死ぬ。最初は肉体の死。二度目は誰の記憶にも残らなくなったとき。
なおこは、ハッとする。
なおこは、ずっと恋をしている。なおこは記憶を消したくないから。
でも、たまらなく寂しい。寂しさをまぎらすために、いつまでも思い出のなかにいる。
人は何かを失ったとき、嘆きつつ、いつかは忘れていく。
現実に折り合いをつけて、また別の何かを求める。
だから、なおこの生き方は、とても哀しい。
でも、母もみっちゃんもともちゃんも「野ばら」にやってくる客も、みんな、それなりに「妙」なので、なおこを優しく包んでくれる。
そして、なおこは気付くのだ。
自分が子どもの頃に母を求めていたように、ももにとってたった一人の母だということに。
なおこは、カシマとの恋から、多分、立ち直っていくのだろう。
by mint-de | 2010-05-27 14:21 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「ディア・ドクター」(DVD)

「ディア・ドクター」 (2009年 日本映画 監督西川美和)

村でたった一人の医者が失踪した。
その医者を捜すうち、村人たちは、彼が医者ではなかったと知らされる。
「?」
自分たちの命綱として頼りきっていた男が、ニセモノだったなんて…
ところで、ホンモノの医者って、どんな医者?

研修医の相馬は、山間の小さな村にある「神和田村診療所」にやってくる。
そこで3年半勤めている伊野は、村のなかに溶け込み、村人に信頼されていた。
伊野は、診療所に来られない患者には自分からでかけていき、時には無料診療もいとわない医者だった。
相馬は、経営のことしか頭にない自分の父親と比べて、患者の気持ちを大事にする伊野の素晴らしさに気付き、研修が終わったらここに来たいとまでいいだす。
しかし、伊野は、相馬の言葉に「自分はそんな人間ではない。ニセ医者や」という。相馬は自虐ネタとしかとらえられなかったが、それは伊野の本心だった。

伊野が、なぜニセ医者になったのかはわからない。ただ、父親が医者で、伊野自身はペースメーカーの営業をしていたことがわかった。
診療所に薬を届けていた男は、捜査中の刑事に、医療の現場に関わる者には、医者じゃなくとも患者を助けたいという気持ちがわいてきたり、一度先生といわれるとそんな気分を味わいたくなるかもしれないと語る。

伊野は、自分のウソに追いつめられていた。気胸の患者を目の前にして、気管に穴を開けることができなかった。看護師の大竹の指示で、なんとか施術することができたけれど。
伊野は、一人暮らしの鳥飼という女性が末期の胃がんだとわかったが、鳥飼は、病気に気付いていて、病院でいろいろいじられるのは嫌だといい、家族には話さず、ウソをついてくれと伊野に頼む。鳥飼の願いを聞き入れた伊野だったが、鳥飼の娘で東京の病院に勤務する医者りつ子を前にして、母を心配する娘の態度に、ウソをつけなくなる。そして、姿を消した。

相馬は、伊野がニセ医者だったことにショックを受け、刑事には本心を語ろうとしなかった。彼が一番可哀相だと思うけれど、どういう医者が患者のためになるのかということは、学べたはずだ。
鳥飼は、伊野が去ってから、りつ子の病院へ入院する。りつ子は、伊野が医者ではないとわかっても、彼が母の最後までどう向き合うつもりだったのか聞いてみたいといっている。娘としては母の病気を治してもらいたい。しかし、医者としてはそれは無理だとわかっている。母にとってどういう選択がよかったのか。医者のりつ子にも迷うことだったのだ。
患者の心に寄り添いながら、患者を診ていた伊野。
村人達は、伊野が医者ではないと知らされても、どこか半信半疑の態度。
伊野を雇った村長は、刑事に向かって、その警察手帳は本物かと尋ねる。
確かに、ホンモノとニセモノの見極めは難しい。資格や証明書を持っていても、その仕事に値する人間かどうかは、仕事ぶりにかかっている。証明書の上にあぐらをかいているような人間もいる。

ホンモノかニセモノか?
何が善で、何が悪なのか?
過疎化、高齢化、無医村。
ユーモアを交えながら、今の問題に切り込んだ脚本が、とてもよいと思った。
まだ、30代の西川監督、これからも楽しみだ。
by mint-de | 2010-02-24 20:47 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「フローズン・リバー」

「フローズン・リバー」 (2008年 アメリカ映画 監督コートニー・ハント)

レイは、ギャンブル好きの夫に、新居の購入費用としてためていたお金を持ち逃げされた。日々の暮らしに余裕のないレイは、二人の子どもを抱え途方に暮れる。
レイは、夫を捜しにいったビンゴ会場で、夫の車を運転するモホーク族の女を見つける。女は、モホーク族の保留地でトレーラーハウスに住むライラ。
ライラは、レイがお金に困っている様子を見て、ある提案をする。

モホーク族の保留地は、ニューヨーク州最北部、カナダとの国境を流れるセントローレンス川を挟んだ両岸に広がっている。保留地に国境があるのだ。それを悪用して、カナダからアメリカに渡る密入国者の手助けをすると、一人分1200ドルも稼げるという。川は冬になると凍る。その上を車で渡ってしまえば、あっという間にお金が稼げるのだ。
その日から、レイとライラは、密入国者をトランクに乗せる仕事を始める。
保留地には、独自の警察があり、重要な事件を除いて州警察は踏み込むことはできない。保留地以外の地を走るときは、白人のレイが運転していれば怪しまれないし、保留地に入ってしまえば安全なはずだった。

ある日、二人はパキスタン人の夫婦を乗せる。荷物は後部座席においたが、レイは、その荷物が気になる。自爆テロとか、いろいろ想像して不安になったレイは、その荷物を途中で降ろしてしまう。しかし、到着後、その荷物には夫婦の赤ちゃんが入っていたことがわかる。
レイは、犯罪に手を染めたが、人殺しをするつもりなんてない。
すぐに引き返して、赤ちゃんを取りにいく。
しかし、赤ちゃんはすでに冷たくなっていた。
ライラは、もう駄目だというが、レイは、必死に車を暖める。
その後、赤ちゃんを抱いていたライラがいう。赤ちゃんが動いていると。

このシーンが、この映画の核なんだと思う。
ライラは夫に先立たれ、子どもを義母に取り上げられていた。いつか取り戻したいと思っていたのだ。
結果的に、それを、後押ししたのがレイだった。レイとライラは、最初はお互いに不信感を抱いていたが、やがて、信頼できる相手になったのだ。
それは、貧しさという共通項と、子どもへの愛情が二人を結びつけたのだろう。
ラストで下すレイの決断は、ライラが動きだした赤ちゃんを見て、「創造主が生き返らせた」と語った言葉を聞いたせいかもしれない。
命の神秘をライラから奪ってしまうことはできないと、レイは考えたのだ。

子どもには、悪いことに関わるなと注意しながら、レイは、お金のために「仕事」をする。そこには、罪悪感はあまり感じられない。
ラストの潔さに、なにか爽快感のようなものまで感じてしまう。
その堂々とした強さが、この映画の魅力なのかもしれない。
by mint-de | 2010-02-10 11:06 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「プール」

「プール」 (2009年 日本映画 監督大森美香)

私好みの映画だった。
しゃべり過ぎない、微妙な間、そして余白が心地よい。
見えてはいないものに、とても大事なことが隠されているような、そんな気がする映画。
プールという人工的な水の場を囲んで、語り合い、歌をうたう。
青く澄んだ水は、いろんな人の思いをたたえているかのように、キラキラ輝いている。
自然の海や川じゃなくとも、水って、見ているだけで、とても癒やされるものだと思った。

さよは、大学の卒業旅行で、タイ・チェンマイ郊外のゲストハウスで働いている母を訪ねにいく。
4年ぶりの再会を楽しみにしていたさよだったが、空港に迎えにきたのは、仕事を手伝っている市尾という若い男。さよがゲストハウスに着くと、そこにはビーというタイ人の少年がいた。
母親のいないビーの世話をしている母京子の姿を見たさよは、複雑な気持ちになる。
自分と祖母を日本において、好きな仕事をするためにタイにやってきた母。
娘の気持ちを考えずに行動している母親は、さよには自分勝手な人間に思えた。
しかし、市尾は娘にクールな対応をする京子に、その距離感がいいと話す。
親も子も血はつながっているけれど、考え方や価値観は違うはず。
一人の人間としてお互いを認めあえればいいと。
そして、さよは、滞在していくうちに次第に気持ちに変化が起きてくる…。

京子は、市尾や娘にいわれても、微笑むだけで否定も肯定もしない。
この何を考えているのかはよくわからないけれど、その行動がすべてを語っているという風情の小林聡美の演技がいい。「かもめ食堂」のときもそうだったけれど、この人の気負いのない自然な演技は、それだけで癒やし系。病気の菊子さん役のもたいまさこも、この人ならではの演技。二人の存在感が、この映画にゆったり感を与えているのだと思う。

コムローイ(紙を筒状にした熱気球のようなもの)というのを、初めて知ったけれど、火の玉が夜空に飛んでいくようで幻想的だった。願い事をしながら飛ばすのだそう。
青いプールが、とてもきれいだった。あのゲストハウスで1週間くらい過ごしてみたいな!
by mint-de | 2009-09-17 14:44 | シネマ(た~ほ) | Trackback