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女たちへの賛歌 「ボルベール <帰郷>」

「ボルベール <帰郷>」  (2006年 スペイン映画)

ペドロ・アルモドバル監督の作品を観たのは、「オール・アバウト・マイ・マザー」と「トーク・トゥ・ハー」の2作。「トーク・トゥ・ハー」も最初のダンスのシーンが印象的だったけれど、この「ボルベール」も最初のシーンに圧倒される。墓を掃除する元気な女たち、飛び交う喧しいスペイン語と原色の花も強烈で、映画の世界に強引に引き込まれてしまう。挨拶のたびにハグしてほっぺにチュッとするその音も、意識して大きくしているようだった。人とのつながりの大切さと、全編、女たちへの賛歌に満ち溢れている。

主人公ライムンダを演じるペネロペ・クルスの演技もすばらしい。実にしたたかでたくましくて、色っぽい女なのである。娘が誤って殺してしまった夫の死体を片付けるライムンダは、とても冷静だ。それは、娘への愛情があるからできることなのだろう。この映画は犯罪者がいっぱいでてくる。でも、その罪を裁くのは、警察とか権力の場ではない。私は、どんな事情があっても人を殺すのは罪だと思うので、このストーリーには釈然としないものを感じるけれど、この映画はそういうことは問題にしていないのだろう。罰せられるべきは、身勝手な男どもだといわんばかりである。

ライムンダが娘を生んだ事情を知り、ライムンダの母がしたことを知ると、とても笑ってみている場合じゃないと思うのだけれど、「それがどうした?」と思えてしまう不思議な魅力に満ちた映画なのである。お金のないライムンダが、撮影クルーのためにレストランで食事を作ることになった時、すれ違う知り合いたちから、いろんな食材を借りてしまうその強引さにあっけにとられるが、このしたたかさが、女たちの生きるパワーなのだと思った。どんな境遇にあっても、生きることにまっすぐで貪欲な女たちの映画なのだった。
by mint-de | 2007-09-27 16:05 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「フラガール」

「フラガール」  (2006年 日本映画)
あったか~い気持ちになれる映画を観たいと思ってた。
この映画の限定上映を知って、早速観てきた。いろんな賞を受賞した、凱旋上映ということで1000円均一で観られるのも嬉しい。
笑って泣いて、観終わったあとで、気持ちがとってもスッキリした(^^)
はっきりいって内容は陳腐。こうなるんだろうなあという、想像したとおりの展開だけれど、対立していた人たちの心が一つになっていく様子や、友情、家族愛にジーンとくる。

昭和40年代、福島県内の炭鉱町。時代は石炭から石油の利用へと変わる過渡期。閉山が相次ぐ炭鉱会社では、会社と町を救うため、石炭を掘るときに汲み出していた温泉を利用してレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」をつくることに。そして、その施設の目玉となるフラダンスを踊るダンサーは、炭鉱町の施設ということで炭鉱関係者の子女でなければならない。

東京から踊りの指導にきた先生と、ど素人ダンサーたちの猛レッスンがはじまる。先生と素人ダンサーのぎくしゃくした関係、町ではハワイアンセンターに賛成の者と反対の者との対立がある。それでも、最後はみんなの気持ちが一つになって、「常磐ハワイアンセンター」の初日、見事なフラダンス・ショーの幕が開く。

素人ダンサーたちは、裸に近い格好で踊ることに抵抗があった。周りの目も最初は冷ややかだ。住民達も、炭鉱の町から温泉レジャー施設の町へと変わっていくことに戸惑いもあった。それらをクリアして、こういう施設がつくられたんだなあと思うと、実話をもとにしているだけ、感慨深いものがある。

私が一番感動したのは、紀美子と早苗の別れのシーン。最初に踊ってみたいといったのは早苗。紀美子は早苗に誘われてダンサーになった。紀美子は母の反対にあってもダンサーになろうとするが、早苗は、父が炭鉱の人員削減の対象になって夕張に行くことになり、幼い弟妹たちの世話をしなければならないので、宣伝公演の前に、ダンサーを辞めて夕張に行くことになる。今までで一番楽しかった、私の分もがんばってと紀美子にいう早苗。このシーンに涙がでる。自分が好きなことでも諦めなければならなかった早苗の健気さが、切ない。

フラダンスの手の動きには、手話と同じような意味があるという。「私」では、自分に手をむけ、「心」では、心臓のあたりをさす。列車にのった先生に戻ってくれるように頼むシーンで、この手の動きが印象的に使われる。

久し振りに和めた映画なのだった。
by mint-de | 2007-09-27 15:59 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「ホテル・ルワンダ」

「ホテル・ルワンダ」  (2004年 イギリス・イタリア・南アフリカ映画)

映画館に行けなかったので、DVDになるのを待っていた映画。
民族間の対立で、100日間で100万人も殺された大量虐殺を描いているということで、かなり構えて見始めたけれど、想像していたような映画ではなかった。それは、虐殺そのものを映し出すというより、いかにして逃げ延びたかに重点をおいて描かれていたからだろう。
ラストの難民キャンプでめいを見つけるシーンは、感動的だった。とても困難な状況だけれど、かすかに希望が見えるし、協力してくれた赤十字の女性の姿に、どんなときにも援助することをやめない「人間愛」の強さを見た思いがする。

公式サイトで、ルワンダの歴史を読んだけれど、同じ国に住み、言語も宗教も同じで、学者たちは異なる民族とは言いがたいといっているのに、ヨーロッパの国々の支配によって、強引に、ツチ族とフツ族に分けられてしまったルワンダ。自国に都合のいいようにルワンダを支配した国々に、怒りを覚える。

1994年、フツ族の支配が続いているルワンダでは、それ以前に権力を握っていたツチ族が侵攻して内戦になっていたが、その和平の話し合いがなされていたころ、フツ族至上主義者たちは、民兵を組織してツチ族の大量虐殺をはじめる。

ミル・コリン・ホテルの支配人ポールはフツ族だが、妻はツチ族。ポールは、最初は家族を守ることに必死だったが、フツ族民兵を恐れてホテルにやってくるツチ族の人々を見殺しにすることはできず、1200人もの人々をホテルにかくまうことになる。

ポールはあらゆる手段を使って生き延びようと考える。軍隊の幹部に賄賂を渡したり、おだてたりもする。危険を顧みずに奔走する赤十字の女性、虐殺の映像をカメラに収める果敢なカメラマン、それに比べて頼りない国連維持軍の大佐。

内政に干渉しないという結論をだす国連やアメリカ。なんのための国連なのか? まあ、イスラエルとレバノンの戦いを見ていても、国連は無力だと思ってはいるけれど…。カメラマンがいった、多くの国の人々が虐殺の映像を見ても、「怖い、といいながらディナーを食べるだけ」という言葉は真実をついている。私もその一人だ、恥ずかしいけれど。

ポールの勇気には、ただただ敬服する。それにしても、なぜここまで他の民族を憎めるのだろう? そこには、憎しみだけではない、あらゆる怒りのはけ口としての鬱憤晴らしのようなものも感じる。人間はいったいどこまで残酷になれるのだろう?

実話だということに感動したが、実際のポールは、ベルギーに亡命して会社を営んでいるらしい。ルワンダに住み続けることができなかったのは残念だ。
by mint-de | 2007-09-25 15:31 | シネマ(た~ほ) | Trackback

男から女へ「トランスアメリカ」

「トランスアメリカ」  (2005年 アメリカ映画)

性同一性障害のスタンリーは、ブリーと名を変えて、ロサンゼルスでつつましく暮らしていた。
肉体的にも女性になる手術を間近に控えたある日、息子と名乗る男から電話がかかってくる。
彼は17歳のトビー。トビーはニューヨークの留置場にいた。
過去とちゃんと向き合ってからでないと手術はできないといわれ、ブリーはいやいやトビーの保釈の手続きに出かけていく。

トビーはドラッグをやり、おまけに男娼をしてお金を稼いでいた。
そんな息子に愛情をもてないブリーは、トビーがブリーを、教会のボランティアと勘違いしたのを幸いに、トビーを継父のところへ送り届け、手術に間に合うようにさっさと帰るつもりでいた。
しかし、継父はとんでもない男だった。そこから、父とロスで俳優を目指す息子の旅が始まる。

まだ見ぬ実の父親を理想化して語る息子に、父親だと打ち明けられないブリー。
ボランティアの女が実は男だと知ってしまうトビー。
この映画を観ていると、ノーマルとはナンゾヤ?と考え、自らの固定観念が揺らいでいくような気がする。
男として生まれたことを認められない男。女になりたい男。そういう気持ちを理解することは私にはできないが、そういう問題を抱えて生きている人間がいるということを、この映画は教えてくれる。
そして、どんな人間であっても、その人間を理解しようとする気持ちは忘れてはいけないのだと思う。
女になりたい息子を認めたくない母親が、孫がいるとわかると手のひらを返したように喜ぶ姿には笑ってしまうが、それは当たり前の反応だろう。
ラストで、不器用ながらも、ブリーは親としての自覚を持ち始め、トビーはそんな親との距離を縮めようとする。

重くて暗いテーマなのに、あくまでもコミカルで優しい映画だった。
それは、多分、自分の心に正直に生きる人間への共感のせいだろう。
車で旅するアメリカの風景がとても美しかった。
by mint-de | 2007-09-25 15:29 | シネマ(た~ほ) | Trackback

戦争と人間「ヒトラー ~最期の12日間~」

「ヒトラー ~最期の12日間~」   (2004年 ドイツ映画)

私はヒトラーにはまったく興味がない。彼がたとえ、この映画のもととなる回想録を書いた、個人秘書のユンゲに優しかったとしても。映画を見て、彼に人間味を感じてしまうとしたら、それは、彼を演じたブルーノ・ガンツの演技力の故だと思う。

ヒトラーや彼を取り巻く将校たちは、敗色濃厚な事態になっても、国民のことを考えず、自分たちの身の振り方ばかり気にしている。1日でも早く降伏していたら、どれだけの命が救われただろうかと、私はずっと、そう思いながら見ていた。

地下の要塞のような守られた場所で、軍の上層部の者は、酒を飲みタバコを吸い、地上の戦争のことなど頭にないように見える。一方、敵の攻撃にさらされ、恐怖の中に生きるベルリン市民たち。この異なるシーンが交互にでてくるので、負けを覚悟で退廃的になっている軍関係者と、攻撃力もないのに必死に戦う兵士や市民の姿が実に対照的だ。結局、上層部が始めた戦争の被害をもろに受けるのは国民だという、その構図が鮮明になる。

ヒトラーは、国が弱くなったのは国民のせいなのだから自業自得だといい、弱いものを排除してこそ強くなれる、多くのユダヤ人を抹殺できたことは誇りだ、とまでいうのである。
そして、側近たちは、もはや軍の師団は地図の上にしか存在していないと思っていながら、ヒトラーには真実をありのままにいうことができない。異常な指導者というのは一人でなってしまうのではなく、周りがそれを助長していくということなのだろう。

それでも、軍の指令に反してベルリンを離れず、負傷者の治療のために尽くす医師や、市民を守るべく戦う将校もいる。負けるまで、どう行動するか、それぞれの人間の生き方が映し出される。
私がもっとも異常に見えたのは、ゲッベルス夫人。ヒトラーへの崇拝ぶりと、自分の思想を子どもに強制する姿は、滑稽ですらある。哀れなのは子どもたちだ。もっとも生きられたとしても、ゲッベルスの子どもという汚名を負って生きるのもつらいかもしれないが。

映画の最後にユンゲ本人がでてくる。彼女は当時、ユダヤ人の虐殺のことは知らなかったそうだ。でも、よく目を見開いていたなら、わかったかもしれないと、自省をこめて語っていた。

それにしても、事実をもとに、これだけ客観的に自国の戦争体験を描いた手腕は、見事だと思う。
by mint-de | 2007-09-25 15:24 | シネマ(た~ほ) | Trackback

オードリー・ヘプバーン

「尼僧物語」   (1959年 アメリカ映画)

かなり古い映画だが、好きな映画の一つ。先日BS2で放送があったので、久し振りに見たのだが、普遍的なテーマを取り上げているので、古い映画でも古さを感じさせない、すばらしい映画だと思った。

尼僧を目指した女性が、最後は、普通の人間に戻るということで、キリスト教には批判的な映画ととられるかもしれないが、私はそういう風には見ていない。キリスト教のことがわからなくとも、彼女の苦悩は理解できるし、オードリー・ヘプバーン演じる尼僧が、自分の本当の生き方を探す、その自分自身と向き合う真摯な姿勢が、感動的なのだ。
最初のシーンで、尼僧になる決意をした娘に、父は、間違っていると思ったら、恥ずかしがらずに戻るようにという。結果は、父のいう通りになるのだが、このシーンはラストを暗示していたということと、人生は選択の連続であって、違うと思ったら、立ち止まって戻ることも必要なのだというメッセージだとも思う。

修道院に入るシーンから始まるので、彼女が何故尼僧になろうとしたのかはわからない。ただ、外科医の父の手伝いをしていたことから、アフリカのコンゴの病院で働きたいという希望を持っていたことがわかる。看護師の資格を持っていても、外国の病院で働くには、修道院に入ったほうが近道だったのかもしれないと、余計なことを考えてしまうくらい、彼女はコンゴ行きを切望している。

第2次世界大戦前のベルギー、外科医の娘ガブリエルは尼僧になるために、修道院に入る。厳しい戒律を守りながら、修練生から尼僧を目指すのだが、戒律より人間的な行いを優先してしまうので、次第に彼女は、神の教えと自己の良心の狭間で苦悩するようになる。

念願がかなって、シスター・ルークとなり、コンゴの病院で働けるようになる。彼女は懸命に働く。しかし、無神論者の医者に、優秀な看護師だとほめられるが、自分の考えにこだわる人間は、神に仕えるのは無理だと、尼僧には向いていないことを指摘される。
そして、コンゴの病院から修道院に戻った彼女は、もう神への愛だけでは生きていけないことを悟るのだ。

神の教えを信じて生きられる人間と、生身の人間として感情をさらけだして生きる人間、どちらの世界に身をおくかは、人それぞれだ。
オードリーの凛とした美しさと、心の迷いを見事に表現する、その演技力が光る映画である。(2005年8月記)
by mint-de | 2007-09-25 15:22 | シネマ(た~ほ) | Trackback

「Dearフランキー」

「Dearフランキー」  (2004年 イギリス映画)

監督・プロデューサー・脚本が、女性による映画。
細やかな描写がいかにも女性監督の作品らしい。
どこかモノクロ映画を思わせる静かな語り口で、終始、抑制が利いている。
スコットランドの海の風景も、とても印象的だっだ。
少年フランキーの父親への慕情と、フランキーを見守る母親リジーの心の葛藤を描いている。

リジー役のエミリー・モーティマーは撮影時、妊娠5か月だったそうだ。そんな時期でもGパンがはけるなんて、さすが女優さんです!
そして、父親の代役を引き受ける男役のジェラルド・バトラーは、彼自身、親の離婚で16歳まで父親に会ったことがなかったそうである。彼は、この役には、適役だったといえる。
出演シーンは少ないが、優しくて、男らしくて、とても存在感のある演技だった。

グラスゴー近郊の海辺の町に越してきたフランキーは、難聴ながらも明るい少年だ。
船に乗っている父親に1か月に2回手紙を書くのを楽しみにしている。
父からは、切手入りの返事がくるが、しかし、それは、すべて母リジーが書いていたものだった。
リジーの母ネルは真実を話し、嘘の手紙はやめるように忠告するが、暴力をふるう夫から逃れてきたリジーは、なかなか息子に真実を話すことができない。
そんなある日、フランキーは父の乗っている船が、町に寄港することを知る。友人は、フランキーが父親に会えるか賭けようと、いってくる。
町にやってくるのに、連絡をしてくれないのは、自分に会いたくないからだと落胆するフランキーを前にして、リジーは、さらなる嘘を考えてしまうのだった…。

私は、本当のことをいつリジーが打ち明けるのか、そこに興味があったのだが、その点は実にあっさりと描かれていて、ちょっと物足りなさも感じている。
でも、この親子を見守るリジーの母や、店を切り盛りする親切なマリー、そして父の代役を引き受ける男の、謎めいているけれど、穏やかで優しい眼差し、そのほかの登場人物も皆いい人で、とても後味のいい映画だった。
以降はネタバレです。


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リジーは、余命いくばくもない夫の願いを聞き入れず、最後まで息子を会わせようとしなかったけれど、私は、実の父に会わせるべきだと思った。
どんな父でも、フランキーにとっては、ただ一人の父親なわけだから。その父をどう思うかは、フランキーが考えることだと思う。
それから、代役の男が実の父ではないと、どうして知ったのかは、あの映画ではちゃんと描かれてはいなかった。聞こえないふりをして、大人の失言を聞いていたのかもしれないが、そこは重要なことなのだから、はっきり描いてほしかったと思う。
フランキーが気づき、彼なりに乗り越える姿が描かれていないので、バスの中で、リジーが事実を知ったフランキーの手紙を読むシーンが、唐突に思える。

息子を思う母の、あふれるほどの愛情がつまった映画だけれど、リジーは、いつも元の夫の影におびえていて、ちょっと神経質で頼りない母親というイメージもある。息子の方がよっぽど大人といえるかもしれない。

私が一番好きなシーンは、代役の男が熱帯魚の本をフランキーにプレゼントするシーン。
彼の優しさは、リジーじゃなくとも涙が出ます。
それから、二人が海で遊ぶシーンも、とても心温まる、いいシーンだった。

私は、リジーとマリーの弟が再会できることを願っている。ぜひ、続編を作って、今度は二人の恋物語をフランキーが応援するストーリーにしてほしい。ジェラルド・バトラーの出演シーンをいっぱいにして(^^)。
by mint-de | 2007-09-25 15:13 | シネマ(た~ほ) | Trackback

愛について 「トーク・トゥ・ハー」

「トーク・トゥ・ハー」   (2002年 スペイン映画) 

「オール・アバウト・マイ・マザー」で、強烈な印象を受けたペドロ・アルモドバル監督の作品。
先日WOWOWで放送があり、今頃になって観ることができた。
評判どおりの魅力ある映画だった。

私は、愛する女性の世話をするために看護士になった、ベニグノのストーカーまがいの行為を認めることはできない。
でも、最後はひどく彼に感情移入してしまうのは何故だろう。
愛するということが、人それぞれのかなり独善的なものであり、愛を失った者の孤独感と紙一重の感情で、ベニグノに根源的な悲しみを感じてしまうからだろうか。

冒頭の、舞台で二人の女性が踊るシーンは、実に悲しみに満ちていて、この映画の孤独感と愛のテーマが凝縮されているようだ。
この踊りを偶然隣り同士で見ていた二人の男、涙を浮かべて見ているのがライターのマルコ、その横でマルコを見つめているのが看護士のベニグノ。

ベニグノは、自分のアパートから見えるバレエ教室で、練習をしていたマリシアに心を奪われ、彼女が交通事故で昏睡状態に陥ると、自ら介護を申し出て、4年間病院でマリシラの世話をしている。
彼は、彼女の身体をマッサージし髪を整え、自分が見てきた映画や舞踊の話をする。まるで彼女が聞いているかのように。

マルコは取材を通して知り合った女闘牛士リディアに心惹かれるが、彼女も競技中に怪我をして意識不明になる。マリシアと同じ病院にリディアも入院したことで、ベニグノとマルコは言葉を交わすようになる。

やがて、ベニグノは自らの罪深い行為によって、悲しみの底に沈んでしまう。
ベニグノのただ一人の理解者がマルコだ。彼は、ベニグノのように女性を愛することはできないが、本能的にベニグノの愛と孤独感に共鳴しているのだと思う。

バレエ教師の、男の魂から女が生まれるというセリフと、劇中の映画で、縮んでいく男が女の体内から出られなくなる話は、そのままマリシアとベニグノにあてはまる。
それは、まるで女は男から飛び立ち、男は女に執着してしまうといっているようだ。

この映画は、舞踊のシーンから始まり、舞踊のシーンで終わる。でもラストの踊りは男と女が一緒に踊り、冒頭の悲しさはない。
そして、その場面に出る「マルコとマリシア」というタイトルが実に思わせぶりだ。

見た後で、愛の意味を哲学的に考えたくなる映画だが、結論は出せないだろう…。(2005年5月記)
by mint-de | 2007-09-25 15:06 | シネマ(た~ほ) | Trackback

アメリカのパリ 「パリ、テキサス」

「パリ、テキサス」  (1984年 フランス・西ドイツ映画)

ヴィム・ヴェンダース監督の名を有名にした、ロードムービーの傑作といわれている映画だ。先日BS2で放送があり、ずいぶん久し振りに見た。
 
全編に流れる、やるせないギターの音色と荒涼とした風景、夕暮れの町。
音楽と流れていく風景を見ているだけでも、その映画の世界に酔いしれてしまいそうだ。

それと、パリとテキサスというミスマッチな都市の名から連想する不思議なイメージ。
ただ土しかない土地に、パリと名付けた人の憧憬のようなものも伝わってくる。
夢と現実、それもこの映画のテーマのように思う。

テキサスの荒涼とした土地をひたすら歩いている一人の男、彼は、ガソリン・スタンドで倒れてしまう。
彼の名はトラヴィス。妻子を捨てて、4年間も音信不通だった。

連絡を受けた弟は,何もしゃべらない兄に呆れながらも、優しく接して、ロサンゼルスの家まで連れてくる。
そこには、トラヴィスの息子、ハンターがいた。トラヴィスの妻ジェーンも、ハンターを残して、失踪していたのだ。

最初は、実の父親を遠ざけていたハンターだったが、やがてトラヴィスと心を通わせるようになる。そして、ジェーンがヒューストンの銀行から送金していると知り、トラヴィスとハンターは、彼女に会うためにヒューストンへと向かう。

トラヴィスはジェーンを見つけ、二人がミラー越しに会話をするシーンで、彼らが別れた理由がわかる。
妻を愛しすぎて、心のバランスを失ってしまった男、夫や子どもにしばられたくなかった女。
自由を求めてさまよう心が切ない。

この映画を見ていると、ストーリーより音楽や風景が自己主張しているというか、それだけでもひとつの映画として完結しているような気がする。
ラストの夕暮れていく町をバックに、トラヴィスの車が町から遠ざかるシーンを見ていると、
私はあの歌のタイトルを思い出すのだ。人生、「悲しい色やねん」(^^)。(2005年5月記)
by mint-de | 2007-09-25 15:00 | シネマ(た~ほ) | Trackback

元気な女たち 「フライド・グリーン・トマト」

「フライド・グリーン・トマト」  (1991年 アメリカ映画)

この映画は、私のお気に入り映画ベスト3のひとつだ。久し振りに見たけれど、何回見てもいい映画だと思う。
私が一番気に入っているのは「女性が元気」だということ。加えて、登場する4人の女性それぞれが、とても個性的で魅力的だ。友情と勇気が描かれ、そして生きる元気がでてくる映画である。

エヴリン(キャシー・ベイツ)は、夫とともに老人ホームにいるおばの面会に行く。そこでエヴリンは、ニニー(ジェシカ・タンディ)という老女に出会う。
ニニーは、エヴリンに50年ほど前の昔話を唐突に話し始める。最初は面食らって聞いていたエヴリンだったが、次第にニニーの話にひきこまれ、その話を聞くためにだけ、彼女のもとを訪れるようになる。

その昔話は、イジー(メアリー・スチュアート・マスターソン)とルース(メアリー・ルイーズ・パーカー)の友情の物語だった。
映画は、エヴリンとニニーの現代の話と、イジーとルースの過去の物語が交互に描かれる。

エヴリンは、倦怠期にある結婚生活をなんとかしようと努力するのだが、肝心の夫はそんなことに関心はない。
夫婦間の問題ばかり考えていたエヴリンだったが、ニニーの話を聞くにつれて、彼女の気持ちに変化が起きてくる。
ニニーはエヴリンに昔話をしながら、彼女を慰め、励ますようになる。このニニー役のジェシカ・タンディがとても魅力的だ。いつも笑顔を絶やさず、昔話に現実感を与えている。

昔話の舞台は、およそ50年前のアメリカ南部。兄の死から立ち直れないイジーと、そんなイジーを励ます兄の恋人だったルース。ふたりは、やがて固い友情で結ばれる。
人種問題も絡めながら、男勝りのイジーと物静かなルースふたりの、困難にぶつかりながらも前向きに生きる物語が語られる。

現代に生きるエヴリンが、昔話に刺激されて次第に強い女になっていくのが小気味よい。
物語には、人の気持ちを変える力があると思わせてくれる映画だ。

このタイトルのグリーントマトのフライは、南部の名物料理だそうで、熟すまえのトマトを薄切りにして、コーンミールや小麦粉などの粉でまぶして揚げるものらしい。一度食べてみたい。
by mint-de | 2007-09-25 14:58 | シネマ(た~ほ) | Trackback

見たり聞いたり、日々思うことをあれこれと…


by mint-de