カテゴリ:シネマ(ま~わ)( 19 )

「わたしに会うまでの1600キロ」

アメリカ西海岸、メキシコ国境からカナダ国境まで南北に延びる自然歩道パシフィック・クレスト・トレイルを踏破したシェリル・ストレイド。山歩きの知識もろくにない彼女だが、1600キロを94日間で歩き切った。
無謀ともいえるトレッキングに、なぜ彼女は挑んだのか?
映画は、コースを歩くシェリルの姿と、彼女の回想シーンを交えながら展開していく。
シェリルは母親の若すぎる死を受け入れられず、夫のいる身なのに他に男を求め自暴自棄な生活に落ちていき、結局、離婚。喪失感と絶望感に襲われた彼女は、自分を立て直すべく1600キロを歩くという過酷な試練を己に与えたのだ。
母親の言葉で印象的な言葉があった。
「日の出と夕焼けは見ようと思えばいつでも見られる。美しいものを見ようとしなさい」
特別な何かではなく、日常でも感動できるものはある。ささやかな幸せを探しなさいというようなことだと、私は受け取った。
シェリルは、コースを歩いていくうちに、自堕落だった過去もそうならざるを得なかった自分の一部だと思えるようになり、前を向くことができるようになったのだ。
再生とは、過去の自分を許すことから始まるのだと思った。
エンドロールで、実際のストレイドさんが歩いた写真が出てくる。意志の強そうなお顔に、1600キロも歩いたということが納得できた。
それにしても、広大な自然の中、夜たった一人でテントを張る、その恐怖感を思うと、よく歩けたものだと感心する。(2014年 アメリカ映画)
by mint-de | 2015-08-29 11:05 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「ヤング≒アダルト」

チョージコチューの女の話である。
ここまで徹底したワガママぶりを見せられると、何だか痛快に思えるのが不思議である。
元カレがまだ自分に未練があると思い込んで、故郷に帰り、とにかくアタックしまくるメイビス。
彼の奥さんなんてどうでもいい。
自分は高校時代は人気者で、こんな田舎町をでて都会でライターとして有名になったのだ。
彼には自分がピッタリ。
でも、彼にはその気がないことを知り、メイビスはブチキレる。
そのみっともなさといったらない。
あまりにもみじめな姿に、同情します(笑)
もっとも夫の元カノに赤ちゃんの写真を送る妻というのも、いかがなものか?
メイビスみたいに騒動を起こして他人を傷つけ、自分も深く傷つかなければ前へ進めない女は、かわいそうな人だけれど、人間は傷ついた分だけ大人になれるのかもしれない。
そうしながら自分なりの幸せというものを見つけていくのだろう。
メイビスは、少なくとも高校時代からはやっと「卒業」できたのだと思う。
  (2011年 アメリカ映画 監督ジェイソン・ライトマン)
by mint-de | 2012-02-28 16:48 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「4分間のピアニスト」

昨年録画した「4分間のピアニスト」(2006年 ドイツ映画)を、今頃見る。
映画館で予告編を見たときは、暗くて重そうな映画のように思えたので敬遠してしまったが、友人がよい映画だったといっていたので、テレビでの放送を録画。
確かに、見応えのある映画だった。

クリス・クラウス監督は、80歳の女性ピアニストが刑務所でピアノを教えているという新聞記事から、このストーリーを考えたという。
その女性の手は、年齢を感じさせない美しい手をしていて、高齢であっても、生きる目的をもつことができるということを伝えたかったらしい。
終盤のシーンで、高齢の女性教師クリューガーが若い受刑者のジェニーに、生きる目的をもて、才能を無駄にするなと説得するシーンがあるけれど、この場面にテーマが凝縮されているのだろう。

刑務所でピアノを教えていたクリューガーは、あるときジェニーという若い女性受刑者がピアノを弾く真似をしているのを見て、彼女の才能に気付く。ジェニーはかつてコンクールでいくつもの賞を受賞していた。今は殺人罪で服役していて、刑務所内ではすぐに感情を爆発させて暴力をふるう問題児だったが、クリューガーはジェニーをコンクールに出場させるべく、彼女の指導を始める。刑務官や受刑者たちからの嫌がらせもあるが、荒んだ心のジェニーとクリューガーが次第に心を通わせるまでが描かれている。

クリューガー自身も暗い過去を引きずって生きてきた。クリューガーは同性愛者で、ナチスの戦時下、愛する女性を殺された悲しい過去があった。クリューガーは自らの残された人生を、ジェニーのピアノの才能を磨くことで、失われた日々や愛する人の奪われた命の無念さを晴らしたいと思ったのだろう。
コンクールでは、聴衆が驚く演奏をしたジェニー。演奏後のジェニーの挑むような強い眼差しは、彼女の再生を感じさせる。それは、クリューガー自身の再生でもあるのだろう。
by mint-de | 2011-01-14 20:54 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「レオニー」

「レオニー」 (2010年 日本・アメリカ映画 監督松井久子) 

レオニー・ギルモアという一人の女性の生き方に、心打たれる映画だ。
有名な彫刻家イサム・ノグチの母という形容詞がつかなくとも、逆境にあっても、自らの信じる道を貫いて生きた、その生き方に、人間としての強さに、私はとても感心した。

1901年ニューヨーク、レオニー・ギルモアは編集者募集の3行広告を見て、日本人のヨネ・ノグチという詩人に会う。ヨネは英語で詩や小説を書いていて、自分の作品をもっと魅力的なものにするために編集者を探していたのだ。レオニーはヨネの才能を認め、ヨネはレオニーの仕事を評価した。二人は一緒に作品を仕上げていくうちに、恋に落ちる。

しかしヨネという男は、レオニーの妊娠を知ると、花瓶の花をぶちまけてウソだと怒りだすような男だった。ヨネが日本に帰国後、失意のレオニーは母がいるカリフォルニアに身を寄せ、男の子を産む。ヨネには頼らずに、カリフォルニアの大自然のなかで子育てをしていたレオニーだったが、息子が日本人であることでいじめられ、ヨネから東京で仕事をしないかという誘いもあって、子どもために日本へ行くことを決意する。

二人を迎えたヨネは、息子を勇と名づけ、女中付きの家を用意する。そして、英語の個人指導の仕事ができるように、「生徒」も探しておいてくれた。だが、ヨネはいつもどこかへでかけていく。問い詰めたレオニーに、ヨネは妻のもとへいくのだと答えるのだった。そんなヨネに我慢できず、レオニーは家をでる。粗末な家に引っ越したレオニーは、その後、小泉八雲の未亡人セツと知り合い家族ぐるみの付き合いをし、英語の生徒たちとも親交を深め、日本の生活にもなじんでいく。

二度目の妊娠後、地方都市で教師として働き、その土地で家を建てることにしたレオニーは、わずか10歳のイサムに家の設計をやらせる。イサムは母のために、富士山の見える丸窓を考案する。次第に戦争の色が濃くなると、息子が徴兵されるのを危惧したレオニーは、14歳のイサムを一人でアメリカに渡らせる。イサムがアメリカに行ってから数年後、レオニーは娘を連れてアメリカに帰国。
晩年は、一人でメイン州の田舎に暮らした。自然の中で、まるで自然にかえるようにひっそりと、その生涯を閉じたのだ。

レオニーは、はじめはヨネを愛していたのだろう。だがその後は、息子の父親という理由だけで付き合っていたのだと思う。芸術家としては、ヨネを尊敬していたようだ。だから息子に芸術の道を歩めと勧めたのだと思う。それにしても、レオニーは芯の強い女性だ。あの時代、シングルマザーとして生きていくには、いろんな困難があっただろう。それも異国で、言葉も習慣も違う国で、偏見のなかで、自分を貫いたその強い意志には驚かされる。
ヨネも身勝手な男のようだが、彼なりの誠意を尽くしていたのではないだろうか。あの当時の男の価値観が、アメリカの名門大学を出たレオニーに受け入れられるはずもない。それでも、レオニーは息子の父親ということで、ヨネはよき編集者として互いを必要としていた。
レオニーが帰国する前に、ヨネと二人で歩く桜並木(千鳥が淵?)のシーンが印象的だ。
ヨネは従順な女を妻にしたが、それでよかったのだろうかと口にする。何も答えずに一人去っていくレオニー。レオニーには、夫は必要ではなかったのかもしれない。
by mint-de | 2010-11-26 15:44 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「ルイーサ」

「ルイーサ」 (2008年 アルゼンチン・スペイン映画 監督ゴンサロ・カルサーダ) 

人並みの人生とはどの程度をいうのかはわからないけれど、苦労したり悲しい出来事があったとしても、並みの人生だといえる人もいれば、不幸の連続で、陰鬱な日々を送らざるをえない人もいる。
ルイーサは、後者の女性だ。
ブエノスアイレスのアパートで一人孤独に暮らすルイーサは、夫と娘を随分昔に亡くし、今は猫のティノがたった一人(匹)の「家族」だ。
毎日バスで霊園の事務の仕事場にいき、ほかにも女優のクリスタルの世話係という仕事をしている。時折、幸せだった家族の夢を見つつ、規則正しい生活をしていた。
ところがある日、愛するティノが死んでしまった。
そして悲しむルイーサに、さらに追い討ちをかけるような事態が起きてしまう。
霊園の社長が近代化を理由に若い娘を雇い、ルイーサは解雇されてしまったのだ。
女優のクリスタルも引退して田舎に引っ込むことになったので、その仕事もなくなってしまう。
社長は退職金もだしてくれない。
せめてティノの火葬の費用だけでも捻出したいと思うルイーサだが、お金がない。
そこでルイーサは、初めて乗った地下鉄で見た光景から「あること」を思いつく。
人にお金を恵んでもらうのは、窮余の策とも最低の手段ともいえる。
ルイーサは、足が不自由なふりや目が見えないふりをして、人からお金をもらうことにしたのだ。
本当に足が不自由なオラシオは、そんなルイーサをたしなめる。
アパートの管理人のホセは、ルイーサを心配しているのに、社交的でないルイーサは本当のことをいえないでいる。オラシオやホセに心を開き、ある方法でティノの火葬を済ませたルイーサは、遺灰を埋めながらつぶやく。
夫や娘といた日々は過去のこと。自分はちゃんと生きていかなければ。
たとえお金がなくとも、心配したり見守ってくれる人がいるのはとても幸せなこと。
ラストの「元気?」と聞くギターの音色が、ずっと殻に閉じこもっていたルイーサの明るい今後を予感させる。
逆境にもめげずに生きていくには、「元気」と「仲間」と「少々のお金」があればなんとかなるのかもしれない。
by mint-de | 2010-10-21 15:35 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「闇の列車、光の旅」

「闇の列車、光の旅」 (2009年アメリカ・メキシコ映画 監督ケイリー・ジョージ・フクナガ)

公式サイトに、監督がこの映画を作るきっかけになった話が載っていた。監督は、実際に貨物列車の上に乗って、アメリカを目指す中南米出身の人々を取材したという。転落して命を落としたり怪我をしたり、とても危険な旅であるのに、それでも、「今よりはましな」生活を求めてアメリカを目指す人々。彼らが、悪いこともよいこともすべては「神の手の中にある」と考え、どんなことが起きても流れに身をまかせる態度だったという言葉が印象的だった。監督は、「私たちが生まれたときから当たり前のように与えられているものを彼らは手にしたいと、大変なリスクを冒してやってくることを、また、何故ギャングに引き込まれていくのかを考えてほしい」と語っている。

メキシコのタバチュラに住むカスペルは、マラ・サルヴァトゥルチャというギャングの一員。カスペルはスマイリーという少年を一味に引き入れた。以後、スマイリーを弟分として従え、組織の仕事をこなしていた。カスペルは恋人マルタの前ではウィリーと名乗り、仕事をサボってはマルタと会っていた。だが、その事実をリーダーのリルマゴに知られてしまう。その上、リルマゴは、マルタに興味を示し、マルタを襲おうとするが、マルタは抵抗したはずみに頭をうち死んでしまう。

ホンジュラスで暮らすサイラは、アメリカに行くことになった。長い間アメリカに渡っていた父が強制送還されて帰ってきたが、父はアメリカにいる家族のもとへまた戻らなければならないという。サイラは乗り気ではなかったが、妹たちが待つアメリカへ向かうことに。それは、命がけの危険な旅だった。サイラと父、叔父は何とかメキシコへ着き貨物列車の上に乗り、更に北を目指す。

あるとき、列車の上に強盗が現れる。それは、リルマゴ、カスペル、スマイリーの三人。リルマゴがサイラを暴行しようとしたとき、マルタを失ったカスペルの怒りが爆発する。リルマゴを殺してしまったカスペルは、スマイリーには戻れと指示し、自分はそのまま列車の上に。サイラは、自分を救ってくれたカスペルに好意を抱き始めるのだった。

カスペルが、マルタやサイラに対してはウィリーと名乗っていたのが、切ない。ギャングの一人じゃなくて、もっと別の人間でいたかったのだろう。まだ、幼さの残るスマイリー(12歳という設定)が銃を持つような社会。すべては貧しさからきていることなのだろうか? アメリカにも貧しい人々はたくさんいる。それでも、中南米の人々にとっては、何かがある街、こことは違うものが見つかる街に思えてしまうのだろう。サイラの強くてまっすぐな眼差しに救われる思いがしたけれど、不法移民としてのアメリカでの生活も大変だろう。
日本でぬくぬくと生きている私には、そこまでして他国に行きたいという気持ちは理解できないけれど、そこまで追い込まれている人々がいるということはわかった。
サイラの純真さやカスペルの絶望感、少年スマイリーの一途さが心に残った。
by mint-de | 2010-06-24 14:21 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「マイ・ライフ、マイ・ファミリー」(DVD)

「マイ・ライフ、マイ・ファミリー」 (2007年 アメリカ映画 監督タマラ・ジェンキンス)

日本では劇場未公開の映画。地味な作品だったが、認知症の親を抱えた家族の話として、身につまされる映画だった。
連絡を取り合っていない父親が、同居していた恋人に死なれ病気になったという知らせに、ジョンとウェンディの兄妹は、父に会いにいく。ジョンとウェンディにとって、暴力的だった父親に対していい思い出はない。父は病気の上に、認知症の症状もでているので、施設に入ってもらうしか選択肢はなかった。

ジョンとウェンディは、二人とも独身。ジョンは大学の教授で、ポーランド人の恋人がいる。ウェンディは派遣で働きながら、いつか認められるための戯曲を書き、妻帯者の恋人がいる。二人の母は、子育てを放棄して家を出た。二人は、家庭というものに夢はもてないのだろう。ジョンは、恋人との関係を発展させることに躊躇があり、ウェンディは、父親の影響のせいか、普通の恋に積極的になれない。
父親を忘れていた二人の人生に、認知症の父親が突然立ちはだかったのだ。

ジョンは、父の病気をクールに受け止め、父を受け入れてくれる施設を見つけた。しかし、ウェンディにとって過去はどうであれ、父はやはり父。父親をそんな暗い施設に入居させたくないという思いがあって、別の施設の宣伝文句にひかれ、父を面接につれていくが、無駄足に。悲しむウェンディに、ジョンはいうのだ。「施設は似たり寄ったり。美しい言葉で、死をカモフラージュしているだけ。家族の罪悪感を減らしたいだけ」と。

父の施設の明かりが暗いといって、自分でライトをもってくるウェンディが切ない。
家で介護ができない者は、本当に複雑でつらい思いをするものだ。
私も、自分の父が、ホームの玄関で、もう実家はないのに、家に帰るといわれたことがある。返す言葉はなかった。

淡々としたストーリーだが、その変哲のなさが、胸に迫った。
ジョンもウェンディも、思い通りの人生とはいえない。
ウェンディには、焦りのようなものも感じられる。でも、それも人生だよねって思える。
ラストが、とてもいい。ウェンディは、父にできなかったことを実践したのだ。
人生は、通り過ぎてからわかることがある。
そうして、人は少しずつ大人になっていくのだろう。
by mint-de | 2010-02-13 14:42 | シネマ(ま~わ) | Trackback(3)

「レスラー」

「レスラー」 (2008年 アメリカ映画 監督ダーレン・アロノフスキー)

格闘技を見るのは好きじゃないけれど、一人の男の生き方に興味をひかれ観にいった。
ミッキー・ロークの実人生と重なった映画評が多いけれど、私は、別の俳優が演じたとしても、この映画に共感したと思う。
主人公のプロレスラー、ランディは、孤独な男。
身も心もズタズタで、はた目には哀れっぽく映るけれど、命を削っててもプロレスをやっていたいと思うその気持ちに、好きなように生きる人間の潔さと自由を感じて、凡人の私は、とても羨ましいと思った。

プロレスラーのランディは、20年前はラムの愛称で呼ばれる人気者だったが、今は、肉体も衰え、週末だけ巡業にでかけ、あとはスーパーのバイトで稼ぐ日々。
長年、薬を栄養剤のように服用していたせいか、ある日、心臓発作で倒れてしまう。
医者からもうプロレスは無理だといわれ、引退を考えるが、娘と好きな女に背を向けられたとき、ランディは、たった一つの生きがいのために、もう一度、リングに立つことを決意する。

ランディが好意を寄せるストリッパーのキャシディは、ランディとは、対照的な生き方だが、普通は、彼女のように生きていくと思う。守らなければならない人がいたり、愛する人のために生きるには、自分だけが満足する生きかたではやっていけない。それ以上は進めない境界線のようなものがあるから、人は、そこで立ち止まるしかない。でも、誰かのためにではなく、たった一人の自分のためだったら、自分が満足するように生きたっていいだろう。文句をいう相手はいないのだから…。

ランディが、かつて脚光を浴びたプロレスラーたちのサイン会の場所で、今は車いすに乗ったり、足が不自由になってしまったプロレスラーたちを見るシーンがある。私は、そこに人生を重ねてしまった。
ずっと栄光のままではいられないし、いつまでも若くはない。衰えと共に生きていくしかない。
昔の栄光をバッチのように付けておくか、いつまでもその光を追い求めるか、それはその人の自由だと思う。
by mint-de | 2009-06-17 14:50 | シネマ(ま~わ) | Trackback

「リリィ、はちみつ色の秘密」

「リリィ、はちみつ色の秘密」(2008年 アメリカ映画 監督ジーナ・プリンス・バイスウッド)

心に傷をかかえた少女が、黒人3姉妹との触れ合いを通して成長し、再生していく姿を描いている。
リリィ役のダコタ・ファニングの繊細な演技と、黒人の長女オーガスト役のクイーン・ラティファの優しくて包容力に溢れた演技が、とてもよかった。

アメリカで公民権法が制定された1964年、リリィは14歳になった。リリィには、4歳の時に母を殺してしまったという過去がある。家から出ていこうとした母は、引きとめようとした父に向けて銃を取り出した。その銃がリリィのところに転がってきて、リリィが銃を母に渡そうとしたときに暴発してしまったのだ。その後、父は、親としての愛情を注ぐことなくリリィを育ててきた。冷酷な父との暮らしで、リリィの、母を想う気持ちは募るばかりだったが、父は、母親はお前を捨てて逃げようとしたというだけだった。

ある日、リリィは黒人の家政婦のロザリンと町にでかけた。公民権法によって、黒人は差別から解放されたはずだったが、まだまだ白人の中には、その法律を快く思わない人々もいて、白人の男たちに言いがかりをつけられたロザリンが反抗的な態度をとったことから、ロザリンは袋叩きにあい逮捕されてしまう。自分の使用人なのに、ロザリンをかばおうとしない父に、すっかり嫌気がさしたリリィは、ロザリンを連れて、母の思い出を探すため、母の故郷へと向かう。母に愛されていたのか、ずっと確かめたかったのだ。

母のいた町で、リリィは母の遺品にあった黒い聖母像のラベルがついたはちみつのビンを見つける。それは、黒人の養蜂家が作ったものだった。その家を訪れ、強引に、家においてほしいと頼むリリィ。リリィの話を聞いていた黒人の3姉妹の長女オーガストは、寛大な笑みを浮かべながら、働くならいいといってくれる。そうして、リリィとロザリンは、新しい環境のなかで暮らしていくことになる。

オーガストは、リリィに、ハチの育て方やはちみつの作り方を教えていく。
ハチに愛を送るのだと、やさしくいうオーガスト。次女のジューンは、気の強い女性。三女のメイは、とても繊細だ。
黒人であるというだけで差別を受けていた時代に、彼女たちは、凛として生きている。
ずっと罪の重荷を背負ってきたリリィだったが、彼女たちと過ごすことで、少しずつ変化が起きてくる。
そして、オーガストや父から母の真実を聞いたリリィは、自信をもって生きていくことができるようになる。母の愛と、オーガストのすべてを優しく包みこんでくれるような温かさ。
誰かに大切に思われていることを知ると、人間は強くなれるのだ。

思うように生きられないときでも、オーガストのように大らかな笑みを浮かべていられたら、困難なことも少しずつ乗り越えられそうな気がする。メイの繊細さはあまりにも哀しい。重荷に耐えられないなら、重荷を軽くするしかないのだから、「嘆きの壁」は、いい方法だと思ったのだけれど…。そのシーンだけが残念だった。
by mint-de | 2009-03-26 14:38 | シネマ(ま~わ) | Trackback(2)

「ラースと、その彼女」

「ラースと、その彼女」 (2007年 アメリカ映画 監督クレイグ・ギレスピー)

ラースは、シャイで人付き合いが苦手。恋人もいない。
そんなラースを心配した兄嫁のカリンは、しきりに彼を食事に招こうとするが、ラースはなかなか誘いに乗ろうとしない。ところがある日、ラースが恋人を連れてきた。
なんとそれは、人間ではなくリアルドール。
兄のガスは、頭がおかしくなったと嘆くが、ラースは真剣そのもの。
兄夫婦は、ラースがビアンカと名付けたリアルドールを医者に診せることにして、ラースを病院へ連れていく。
バーマン医師は、ラースの体に異常はないので、ラースが妄想を抱いている間は、ラースに話をあわせるようにと告げるのだった…。

ラースの不幸だった過去が、今の彼をつくってしまったのだ。
そのことで、自責の念にかられる兄。

兄夫婦は戸惑いながらも、ラースとビアンカを受け入れ、周囲の人たちも事情を聞き、優しく協力する。
映画を見ていると、不思議なことに、ラースのビアンカへの対応よりも、ラースへの周囲の人々の反応が気になってくる。
それは、神父がいっていたように、ビアンカによって人々が試されたということなのだろう。
私たちが普通持っている感情や行動力を、何かが邪魔をして、人並みに持てない人間もいる。
人間は皆、それぞれに違いがある。他人をどう見るか、他人とどう接するか。
ラースに対する周囲の気配りに、胸が熱くなってくる。寛容な心の素晴らしさ。
特に、オバサンたちが優しい。母親の愛情を知ることができなかったラースにとって、それは母性愛ともいえる愛情に触れた貴重な体験だった。ラースに想いを寄せるマーゴの態度もとてもいい。周囲の温かさが、彼に何かを教えてくれたのだろう。ビアンカに対するラースの変化は、周囲からの影響だったのだ。

ラストは、ラースの再生を思わせるシーンで終わる。
人との関係を築いていくには、まず理解しようと努めること。
そして、結果を急がずに見守ることの大切さ。

テディベアへの人工呼吸など、微笑ましいシーンがいっぱい。とても気に入った映画だ。
by mint-de | 2008-12-25 14:42 | シネマ(ま~わ) | Trackback

見たり聞いたり、日々思うことをあれこれと…


by mint-de