カテゴリ:シネマ(あ~そ)( 55 )

「しあわせのパン」

なつかしい洞爺湖が舞台になっているということで、楽しみにしていた映画。
洞爺湖の風景を期待していた身には、湖が一方向からしか描かれていないのでちょっと物足りなかった。
観光PRの映画じゃないのでこんなことをいうのはおかしいけれどね。
映画のカフェは、実際にあるんだね。法事で帰ったときはぜひ訪れてみたいな。
お店の雰囲気も、湖の眺めもとてもよかった。

映画はメルヘンチック。絵本の世界そのままの原田知世の雰囲気と衣装。
若い夫婦が営むカフェマーニ。そこにやってきたちょっぴり不幸せな客たちが、夫婦や常連客と触れ合い、おいしいパンとコーヒーを飲んで、また少し元気になっていく。
太陽に照らされた月がその光で夜の闇を明るくするように、人も誰かを支えたり支えられたりして生きている。メッセージはよくわかる。
でも、悩む姿が割愛されていて、起承転結の始めと終わりだけを語られているような気がする。上澄みを飲まされている感じというか。パンがおいしそうで、見終わったあと、無性にパンは食べたくなったよ(^^)
by mint-de | 2012-01-31 14:29 | シネマ(あ~そ)

「木洩れ日の家で」 

 「木洩れ日の家で」  (2007年 ポーランド映画 監督ドロタ・ケンジェジャフスカ)

一人暮らしの老女の毅然とした生き方に共感を覚える映画。
そしてワンコもすばらしい名演で、91歳のアニェラと愛犬フィラの物語といってしまいたくなるほど。フィラがいることで、この映画に明るさがもたらされている気がする。ワンコ映画でもないのに、こんなにワンコのアップが見られる映画は珍しい。
アニェラは、広大な敷地に立つ古い屋敷に一人で住んでいる。息子は年に2回しか訪ねてこない。
愛犬のフィラが唯一の話し相手だ。時折、近所の子どもたちが庭に侵入してブランコで遊んでいるので注意したり、音楽クラブの子どもたちが演奏する様子や隣家の女が愛人といるのを双眼鏡でのぞく日々。
アニェラは息子と暮らしたいと思っているが、息子の家族にはその気持ちはない。
彼女は思い出のいっぱいつまったこの家を去りたくはないので、この家を買いたいといってくる男には、その申し出を頑として拒んでいた。しかし、ある夜、息子の裏切りを知ることになる。
自分の育て方が間違っていたのかと嘆くアニェラ。一時は絶望の淵に沈んだ彼女だったが、きっぱりと息子を諦め、ある決断をするのだった。
アニェラにとって、古いこの家は彼女の人生そのもの。年老いているからといって、自らの望みを捨てることはない。自分にとって最良で、そして誰かのためにも役立つことを選択するのだ。
老後を家族に頼れなくなったら、自分で行動するしかない。それは誰もができる選択ではないけれど、たとえ足腰が弱り、物忘れがひどくなったとしても、その人の一生の終わりにふさわしい場所というのはあると思う。
老女の気概に拍手したくなるような映画で、モノクロの雰囲気もストーリーによく合っていた。
by mint-de | 2011-11-30 13:26 | シネマ(あ~そ) | Trackback

「ウィンターズ・ボーン」

「ウィンターズ・ボーン」 (2010年アメリカ映画 監督デブラ・グラニック) 

描かれた世界をどう理解したらいいのか戸惑いつつ、どんなに過酷な境遇にあっても、生きる術は自分自身が諦めない限りあるのだと思った。
ヒロインの少女のように、強い心を持てる人間は少ないと思うけれど、家族を守るために孤軍奮闘するヒロインの凛とした姿に、心を打たれた。

ミズーリ州の山の中、17歳のリーは、心を病んでしまった母と幼い弟妹と暮らしている。
覚せい剤を製造した罪で逮捕されていた父親は、保釈後に行方不明になった。
父が裁判に出廷しなければ保釈金の担保になっている自宅と森を失ってしまうと知らされたリーは、父を捜すことにする。
リーは周辺に住む親戚に父のことを尋ねまわる。次第に明らかになる事実は、親戚中がグルであり父は裏切り者だったということ。
父の死の証拠が家族を救うというのは皮肉な話だけれど、リーはそんな現実にもめげたりはしない。
ただ自分がしなければならないこと、家族を守るために、奮闘するのだ。
印象的だったのは、お金を得るために軍に入隊しようとしたリーに、軍の担当者が今リーがやるべきことは、幼い弟妹をちゃんと育てることだと諭す場面。
リーが弟妹に、リスを食べるために皮をはぎ、はらわたの取りかたを教えるシーンは見ていられなかったが、彼女たちが生きていくためには覚えなければならないことなのだ。
遊具で遊び、森の自然を楽しむ。
それは、どんなに貧しくとも、家があって愛する家族がいれば、それだけでも何とかやっていけるだろうという暗示でもある。
テーマはとても重たくて、荒涼とした風景が続く暗い映画なのだが、リーを演じたジェニファー・ローレンスの演技がすばらしく、彼女のひたむきな姿がとても清々しく感じられた。
by mint-de | 2011-11-03 14:54 | シネマ(あ~そ) | Trackback(2)

「おじいさんと草原の小学校」

「おじいさんと草原の小学校」 (2010年 イギリス映画 監督ジャスティン・チャドウィック)

実話をもとにした映画。私はとても感動した。
過酷な人生を歩みながらも、84歳にして文字を学びたいと願ったマルゲ。
彼の熱意に心を動かされる校長のジェーン。
この二人の信頼関係と、マルゲの「同級生」である子どもたちの元気で生き生きとした様子が、この映画の魅力になっていると思う。

2003年のケニア。マルゲは、誰でも無料で教育が受けられると知り、早速、小学校へ。
文字の読み書きができないマルゲは、ぜひ文字を覚えたいと思ったのだ。しかし、小学校は子どもたちが学ぶ場所。老人は入れないと断られる。
それでも納得できないマルゲは、何度も学校へ。
マルゲの熱意に根負けしたジェーンは、マルゲを学校に招き入れる。
マルゲは、ケニアをイギリスから独立させるべく戦った運動に関わっていたため、妻子を殺され自身も収容所でむごい拷問を受けた過去があった。そういう過去が回想シーンとして挿入されている。
マルゲの過去を知ったジェーンは、彼のために周囲の反対にもめげず、マルゲを学校で教える。マルゲのことはマスコミにも知られるようになるが、ジェーンの上司や子どもたちの保護者は、老人が小学校にいるのはおかしいいと騒ぎ始める。
ジェーンはマルゲのために、小学校で学べるように奮闘するのだったが…

文字を知らずに生きてきたマルゲの、84歳にして学びたいというその姿勢に感銘を受ける。そして、自分の信念を貫いて生きてきたマルゲの人生にも。
ジェーンに助けてもらった彼が、ラストで恩返しの行動にでるのも、彼のそういう過去があったからこそできた行為だったのだろう。
教育者として、あくまでも寛容なジェーンの姿もいい。

ジェーンとマルゲの会話で、考えさせられる言葉があった。
独立運動のとき、ジェーンの部族は政府側だった。それしか選択肢がなかった。反対したら殺されていたとジェーンがいったとき、マルゲはこう返した。「自分は犠牲をはらった。その犠牲があるから今の自由がある」(言葉は正確ではありません)
マルゲの失ったものを思うと、その「自由」という意味の重さを考えてしまう。
by mint-de | 2011-08-06 11:09 | シネマ(あ~そ) | Trackback

「ザ・タウン」

ベン・アフレックの監督作品は、以前、DVDで「ゴーン・ベイビー・ゴーン」を見ていて、好印象をもっていた。この作品も最初からスリリングな展開で、最後まで緊張感を持たせる描き方は上手いと思った。
私は派手な銃撃戦やカーチェイスは苦手なのだが、強盗グループの彼らが追ってくるFBIから逃げようとするシーンでは、彼らの必死さに悲壮感のようなものを感じた。
金儲けをするには強盗しかないと思わざるを得ないような環境で暮らしている身には、まっとうに生きるという考えは最初からないのかもしれない。
銀行強盗や現金輸送車強盗の一番多い街タウン。そこで育ったダグ(ベン・アフレック)とジェム(ジェレミー・レナー)は強盗仲間。だが、ある事件をきっかけに二人の進む方向が違ってくる。
ダグは銀行強盗で人質にとった支店長クレアと恋に落ちてしまい、強盗から足を洗うことを決意する。強盗をやめたいダグと、そんなダグを引き止めたいジェム。ジェムのラストが切ないのは、そんな生き方しかできない男が哀れに思えるからだろうか? ジェレミー・レナーはアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされているが、確かにいい演技だった。
その後のダグは、どう生きるのだろう?

ダグが人質にとったクレアと恋に落ちるというのは、ちょっと信じられない展開なのだが、それも、コインランドリーでクレアがダグに話しかけて二人の付き合いが始めるのだけれど、この辺の描き方はちょっと安易すぎる気がした。
強盗団を追い詰めるFBIの捜査官フローリーが「マッドメン」のジョン・ハム。彼もいい演技で存在感があった。AXNで始まる「マッドメン」は、男の物語という感じで私にはあまり面白そうに思えないでいるのだが、彼がでているのなら見てもいいかなと思っている。
by mint-de | 2011-02-12 13:58 | シネマ(あ~そ) | Trackback

「海炭市叙景」

「海炭市叙景」 (2010年 日本映画 監督熊切和嘉) 

詩的なタイトルから連想した世界が、そのまま描かれているような映画だった。
日々の暮らしを淡々と綴り、そこから切なさややりきれなさが波紋のように伝わってくる。
職を失った若い兄と妹、立ち退きを迫られている老女、水商売の妻が心配なプラネタリウム職員の男、経営も再婚した妻と息子の関係もうまくいかず悩むガス屋の社長、疎遠な父と息子。
オムニバス形式で描かれる5つの物語に登場する人物たちは、みな問題を抱えている。
それでもみな、それなりに生きている。
人生は喜怒哀楽。そんな風に生きるしかないっしょ。そうでないかい?
余白のある映画って感じかな。しみじみとした余韻が残る映画。
音楽が、ストーリーと函館の冬景色にとてもあっていた。
by mint-de | 2011-01-25 20:32 | シネマ(あ~そ) | Trackback

「クレアモントホテル」

「クレアモントホテル」 (2005年 イギリス・アメリカ映画 監督ダン・アイアランド) 

誰かの娘ではなく、誰かの妻でもなく、誰かの母でもない。
そんな自分でいたくて、サラは娘のもとを離れ、一人ロンドンのホテルに長期滞在する。
そのホテルには、サラのように一人ホテルに暮らす老いた人々がいた。
みんなとても個性的。そして孤独を紛らす出来事を期待していた。
新入りのサラは注目の的。サラはそんな視線に戸惑いながらも、ホテルの生活になじんでいく。
ロンドンにいる孫に電話をかけても梨のつぶてだったが、ある日外出中に転んでしまい、そのとき親切にしてくれた青年と知り合うことになったサラ。
サラは、その青年をホテルのディナーに招待する。
しかし、ホテルのみなはサラが孫をよんだのだと早とちり。
それからその青年ルードヴィックは、サラの孫のデズモンドに扮することになる。
ルードヴィックはとても優しい。サラにとってルードヴィックは友人ではあるけれど、思い出の中の夫とだぶる部分もあったのではないだろうか。晩年のつかの間の幸福感。
息子でも孫でもなく、ただ気が合う年の離れた友人。
なまじ血がつながっているよりこういう関係のほうが、素直になれるのかもと思ったりもするが、サラの娘や孫が可哀想な気もする。
それと晩年を彩るのが自分の大切な思い出だという点に、ちょっとやりきれない気もする。
思い出に埋没してしまうような感じで。それともそれが老後の楽しみ?
ラストは、サラがロンドンから家に戻るという終わり方にしてほしかったな。
そのほうがもっと余韻が残る気がするのだけれど…
ああいう終わり方だと、老人には身も蓋もないというか…
出だしのユーモアと皮肉を織り交ぜた形で、それでも生きていくというラストのほうがもっと共感できた気がする。 
by mint-de | 2010-12-09 14:33 | シネマ(あ~そ) | Trackback

「隠された日記 母たち、娘たち」

「隠された日記 母たち、娘たち」 
  (2009年 フランス・カナダ映画 監督ジュリー・ロペス=クルヴァル) 

母と娘。実の母に捨てられた母は、娘に対して愛情をうまく表現できない。娘はそういう母に素直になれない。まるで透明な板を通して接しているような母と娘。そんな二人だったが、ある事実を知ることによって、その関係に変化が起こる。
親と子の関係というものは、自分が親になって思うのだけれど、親は自分が育てられたように子どもを育ててしまうのではないだろうか。無意識のうちに、親が「教科書」になってしまうのだ。親に似たくはないと思う部分があっても、結局、似たようなことをしていて笑ってしまうことがある。

カナダで働いているオドレイは、休暇でフランスの片田舎に住む両親のもとへ帰ってきた。父は優しく迎えてくれるが、医者の母マルティーヌの態度はとてもクールだ。オドレイは散歩にでて、海辺に立つ祖父の家を眺める。今は無人のその家は、かつて母の家族が暮らしていた家だ。大きな仕事を任されていたオドレイは、集中して仕事をするために、その家を使うことにする。台所を片付けていたオドレイは、そこで古い日記帳を見つける。それは祖母ルイーズの日記だった。

料理のレシピ、子どもへの愛、社会にでたいという願望、夫への不満がつづられた日記を、オドレイは興味をもって読み始める。ルイーズは、夫や子どものもとから突然いなくなった身勝手な女だと聞かされていた。実はオドレイは妊娠していた。子の父親は恋人でもない男。産むことにためらいがあり、自分と母とのことを考えると子の親になるなんて信じられないことだった。迷っていたオドレイにとって、祖母のその日記は、女の生き方や母になることについての参考になった。読み進めていくうちに、オドレイには祖母への印象が変わってくるのだった。

ルイーズは働きたい、自立した女になりたいと願っていたのに、夫がそれを許さなかったのだ。ルイーズは、マルティーヌに勉強して自立した女になることをすすめた。マルティ-ヌは医者として成功したが、母に捨てられたという過去からまだ脱け出せず、誰に対しても辛らつで横柄な態度をとっている。ルイーズのことを話したがらなかったマルティーヌだったが、彼女がその日記を読んだことである真実が見えてきたのだった…

ルイーズの生きた時代は、女性たちにとって自由に生きるには生きづらい時代だったかもしれない。今は普通のことでも、その時代では奇異な目で見られたことだろう。何でもありの今の世の中を生きるオドレイには、選択肢はいっぱいある。それでも、母になること、妻になることは、昔からもこれからも女性にとっては生き方を左右する一大事だ。海を眺めながら考えるオドレイの姿に、いつの時代にも迷う女の普遍的な姿を見る思いがする。

父のせいで辛い思いをしてきたマルティーヌが哀れに思えるが、過去にこだわることなく生きていれば、自分の娘に対してもっと違った態度をとることができたのではないだろうか。
それにしてもマルティ-ヌの父は恐ろしい人だ。

カトリーヌ・ドヌーヴの貫禄あるオバサン化にビックリ。
もっとおやせになると、あの美しさが戻る気がするのですが…
by mint-de | 2010-10-28 14:24 | シネマ(あ~そ) | Trackback

「彼女が消えた浜辺」

「彼女が消えた浜辺」  (2009年 イラン映画 監督アスガー・ファルハディ) 

セピデーと夫は、友人の2家族と離婚したアーマド、独身のエリと一緒に、テヘランからカスピ海沿岸の避暑地へやってくる。セピデーには、アーマドにエリを紹介するという目的があった。一緒にきた連中も二人を仲良くさせようといろいろ気を回す。みんなで仲良く遊び、楽しい休暇になるはずだったが、1人の子どもが海で溺れたことから、状況が暗転する。

子どもは助かったが、別の子どもの凧揚げを手伝っていたエリが、いなくなってしまったのだ。
エリは溺れた子を助けようとして海に入ったのか?
それとも黙って帰ってしまったのか?
子どもの保育園の保育士だったエリを誘ったセピデーは、人一倍彼女を心配する。
一泊で帰るといった彼女を強引に引き止めたセピデーには、皆にいっていない秘密があった。

次第に明らかになる事実に、皆は困惑する。
エリの兄と名乗る人物に真実を伝えるべきか?
セピデーは、エリの名誉と自らの保身の狭間で苦悩する。

ちょっとした善意から行動したことなのに、思いがけない結果になってしまうことがある。
そのとき、人はどう決断し、どう行動するのか?
エリはセピデーの誘いに気軽にのれる身ではなかったのに、なぜ旅行にきたのか?
「永遠の最悪より最悪の最後のほうがいい」というアーマドの元妻の言葉に頷いたエリ。

なんでもありの社会に身をおく日本人の私には、イランの女性たちが抱える問題はよくわからない。
けれど、常にチャドルをまとう彼女たちの心の底にも、私たちと同じような願望はあるだろう。
エリが凧揚げに興じる生き生きとした表情が、その願望や自由を表現しているように見えた。
彼女がつかもうとしたものは、海の中へと消えてしまったかもしれないが、つかもうとする意思は十分に伝わってくる映画だった。
by mint-de | 2010-09-16 15:33 | シネマ(あ~そ) | Trackback(7)

「イエロー・ハンカチーフ」

「イエロー・ハンカチーフ」 (2008年アメリカ映画 監督ウダヤン・ブラサッド)

日本版を見ているので、ラストでは黄色いハンカチが(アメリカ版は帆を掲げてと頼んでいたけれど、実際はハンカチだった)はためいているのがわかっている。結末がわかっているせいか、内容はとてもいいのだけれど、感動はいまひとつだった。
役にぴったりの雰囲気でカッコよかった高倉健に比べると、ウィリアム・ハートはちょっと普通のオジサンすぎた気がする。笑いをさそった武田鉄矢と桃井かおりのコンビのアメリカ版は、二人とも若くて可愛いといった感じで、全体的にとても地味な映画だった。

6年の刑期を終えて出所したブレッドは、ビールを飲んでしゃばの味をかみしめる。そこで出会った若い二人、ゴーディは先住民地区で育った風変わりな若者、マーティーンは孤独感を抱えている少女。ひょんなことから、3人は、ブレッドが目指すニューオーリンズまでゴーディの車で旅をすることになる。
ブレッドは、妻宛てに、自分を待っていてくれるなら家のそばに黄色い帆を掲げてほしいという手紙をだしていた。過去のブレッドは、メイと結婚して子どもが生まれるという期待に、やっとささやかな幸せを感じられる生活ができるようになったのに、メイが流産してしまったことから、夫婦の関係にほころびが生じてしまった。あるとき人を死なせてしまったブレッドは刑務所へ。

ブレッドは、刑務所で過ごし、自分にとって何が大切なのか、よくわかったのだろう。だから、人生の先輩として、若い二人に静かに助言する。ゴーディは、周囲に理解されずずっと疎外感を感じていた。自分の居場所を求めて、旅をしているのだという。ブレッドは、もっと自信をもてとゴーディにいう。マーティーンは、父親との暮らしで父に愛されていないと感じている。誰にも必要とされていないという孤独感。そして、ゴーディをウザイと思っている。ブレッドは、ゴーディのよさをもっと認めてあげなさいという。理解しあうには、相手をよく見ること。いっときの感情に流されてはならないと、ブレッドは自分の経験から思うのだ。ブレッドの話を聞いてから、若い二人が積極的になっていく様子が微笑ましい。誰かのために、一緒に何かをする。人間関係に懐疑的になっていた二人は、ブレッドと妻が抱き合う姿に新たな希望を見出すのだ。

3人が旅をして通り過ぎていく場所は、廃屋やハリケーンの爪跡が残る場所。誰も住まなくなった家と、行き場のない3人。そういうシーンのあとで、黄色いハンカチやタオルがいっぱい風にはためいているラストを見ると、待っている人がいるということ、行くべき場所があるということが、とてもありがたくて大事なことなのだと気付かされるのだ。
by mint-de | 2010-07-04 16:45 | シネマ(あ~そ) | Trackback

見たり聞いたり、日々思うことをあれこれと…


by mint-de