カテゴリ:私の本棚( 75 )

村上春樹

『東京奇譚集』  (村上春樹 新潮社)

久し振りに村上春樹の小説を読んだ。エッセーは時々読んでいたが、小説は1988年発行の『ダンス・ダンス・ダンス』以来だから、かなり間があいてしまったが、初期のころの軽妙さに落ち着きが加わって、昔のように面白く読むことができた。
ただ、私はやはり『風の歌を聴け』が一番好きだ。あの新鮮な言葉がシャワーのように飛び散る、リズミカルな文体がとても気に入っている。この本の初版本をもっているということが、私のひそかな自慢である(^^)。

『東京奇譚集』は、誰がタイトルをつけたのかは知らないが、彼の小説は大体が奇譚ぽいので、わざわざこんなタイトルをつけなくてもいいのではないかと思う。5編の短編は、それぞれがとてもユニークで、「ムラカミ・ワールド」を堪能できる。

「偶然の旅人」は、ゲイの男がある女性と偶然知り合ったことから、疎遠だった姉との関係に変化が起きる話。偶然とは、必然の付録かもしれない(^^)。
「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです」(以下、色文字は私が気に入った文章)

「ハナレイ・ベイ」は、ハワイの海で息子を失った女性の話。女性は、喪失感を抱えながらも、人生に折り合いをつけ、好きなピアノを弾いて生きていく。
「打ち寄せる波の音と、アイアン・ツリーのそよぎのことを考える。貿易風に流される雲、大きく羽を広げて空を舞うアルバトロス。そしてそこで彼女を待っているはずのもののことを考える。彼女にとって今のところ、それ以外に思いめぐらすべきことはなにもない」

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」 マンションの階段から忽然と姿を消した夫を捜してほしいという、妻の依頼を受けた男が、マンションの階段で調査をする話。26階分の階段を上り下りする人が本当にいるのかと疑問に思うが、階段を通る人との会話もおかしくて、この短編の中では、一番気に入った。
「私たちは日常的にものを考えます。私たちは決してものを考えるために生きているわけではありませんが、かといって生きるためにものを考えているというわけでもなさそうです。パスカルの説とは相反するようですが、私たちはあるときにはむしろ、自らを生きさせないことを目的としてものを考えているのかもしれません」

ほかに、「日々移動する腎臓のかたちをした石」、「品川猿」の2編。「品川猿」は、猿が言葉をしゃべるので、羊男を連想させる。私としては、猿より羊のほうがよかったなあ(笑)。
無駄のない平明な文章で、人生を見透かしている。私は、そこに一番魅力を感じている。
(2005年9月記)
by mint-de | 2007-09-25 12:56 | 私の本棚 | Trackback

少年の選択

『おわりの雪』 (ユベール・マンガレリ 田久保麻理訳 白水社)

訳者あとがきでは「人生の美しさと哀しみが凝縮した小さな雪の結晶が、すこしずつ大地に降り積もっていくような重み」のある小説と表現している。
静謐で淡々とした文章で生と死を語り、父と子、少年と老人、欲望とそれと引き換えに失うもの、そういった対比が、切なく胸に迫ってくる。

ある日、店に売り出された、鳥籠に入ったトビを欲しいと思った少年は、家に帰ると、病気で寝たきりの父にその話をする。そして、トビ捕りの人にトビの捕まえ方を聞いたとウソをつき、自分で想像した物語を父に聞かせるのだ。そして、父は何度もその息子の作り話を聞きたいという。そこには、死を間近にした父と、父を見守る子の温かな絆が感じられる。

少年は、トビ欲しさに、残酷な仕事を引き受ける。しかし、その行為のあとで、父の言葉が慰めになる。

「むかし父さんも、あることを経験した。ふつうならつらいと感じるようなことだったが、おれはそうは感じなかった。だがその代わり、自分は独りだと、これ以上ないほど独りきりだと感じたんだ……」

そして、犬を連れて雪の中を歩いたときも、父からもらった革の長靴が、少年を雪の冷たさから守ってくれるのだ。

犬と丘を行くシーンは、ものすごく哀しい。何かを得るために何かを失う。それは、生きていくための理不尽な選択だ。そうして何かを捨て一つのものを選択する、それが大人になっていくということなのだろう。

読後は、降りしきる雪の中で物思いに沈みながら、いつまでもその余韻に浸っていたくなる、そんな小説だ。

作者のユベール・マンガレリは1956年フランス生まれ。海軍の経験がある。89年に児童文学でデビューし、99年から本格的な小説を書き始めたということだ。
by mint-de | 2007-09-25 12:51 | 私の本棚 | Trackback

何もない風景

『アメリカの61の風景』 (長田 弘 みすず書房)

詩人の長田弘さんが、20年にわたって約10万マイルを車で旅した記憶を綴る、ロード・エッセー。
長田さんの透明感あふれる詩的な文章と、本質を突いた簡潔な言葉を道連れに、一緒に北米大陸を旅しているような気分になる。

アメリカの自然と文化を語りながら、通り過ぎる風景のなかから、あるいは目の前に広がる光景のむこうに、人生を思い、深く思索する。

本を読んでいると、吹きくる風の音や広大な草原の草のざわめきが、聞こえてくるようだ。
私が一番気に入ったのは、49「いつかノー・マンズ・ランドで」の中の文章。

「何もない風景のなかでは、何もかもがありありとして、不思議な透明さを帯びてくる。風が吹くと、草という草がいっせいにざわめいて、日の光がすばやく遠くへと移ってゆく。
何もない風景は、眺めることがぜんぶであるような景観をもたない。それでいて、旅がくれるものすべてをくれるのは、じつは何もない風景なのだ。
旅が旅するものにくれるものはナッシングにすぎない。そのナッシングを黙って見つめる。あるいは、そのナッシングの奥へ入ってゆく。旅が旅するものにくれるものは充実したナッシングだけなのだ、と思う。」

                                                
by mint-de | 2007-09-25 12:46 | 私の本棚 | Trackback

信仰とは…

『沈黙』 (遠藤周作 新潮文庫)

久し振りにこの本を読んだ。
昔も深く感動したが、今回もこの本の世界にいろいろ考えさせられた。

信仰心とは何か。
自分の命を犠牲にしてまでキリストの教えを守ろうとするその強さは一体どこからくるのだろう。

その当時の農民の貧しさゆえに、死後の天国の世界はとても魅力的なものとして受けいれられたのかもしれない。
でも私は棄教した神父のフェレイラやロドリゴのほうに興味がわく。
実際にフェレイラは存在していたという意味で、彼は日本で死ぬまで、何を思い何を生きる糧にしていたのだろう。

ローマ教会からは蔑まれ、日本人からは「転び」と揶揄され、江戸幕府に飼われて、日本という異国で生命を終えた宣教師。

キリシタンの農民の命を救うために棄教した彼の行為を、私は責められないと思う。
それが神の御心でないとするなら、生きたいと願う命を救えなければ、祈りも何も無意味だと思う からだ。

宗教学的にいえば違った解釈になるかもしれないけれど、キリスト教の最大のテーマは、「自己犠牲による愛」だそうだから、彼は己の信仰心を犠牲にして、他のキリシタンを救ったということにならないだろうか。そのへんのことは分からないけれど。

ただ、私はフェレイラは心の中ではずっとキリスト教を捨ててはいなかったと思う。

彼は沈黙していただけだという気がする。

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by mint-de | 2007-09-25 12:42 | 私の本棚 | Trackback

『ラブ・ストーリーを読む老人』

『ラブ・ストーリーを読む老人』 (ルイス・セプルベダ 旦 敬介訳 新潮社)

作者のセプルベダは、1949年にチリで生まれ、社会主義運動がもとでピノチェト独裁政権下では942日の刑務所暮らしを経験した人である。私は彼の『パタゴニア・エキスプレス』(国書刊行会)を最初に読んで、その刑務所での拷問の凄まじさや牛の糞を広げたトラックの荷台にうつ伏せになるといったような描写にびっくりしながら、どこか明るく簡潔な文章が気に入って、次に彼の初めての小説『ラブ・ストーリーを読む老人』を読んだ。

エクアドル東部のアマゾン上流の村に住む老人アントニオは、「果てしない愛の幸福と愛の苦悩に満ちた」恋愛小説を読むのが最高の楽しみだった。彼は、入植地で先住民のシュアル族と生活を共にした経験をもち、ジャングルやそこに生息する動物たちのことを熟知した人間でもある。ある日、オセロットに殺されたグリンゴ(外国人)が見つかり、老人は、大好きな恋愛小説を読む時間を奪われ、そのオセロットと戦うことになる。

本当の自然保護とはどういうことか、真の人間と動物の共生とは、物質文明の先にあるものは何なのか、そういった問題を静かに訴えている作品だ。そして、なによりも文章全体からたちのぼる森の香気のような清新な文体がよい。それと百戦錬磨の老人が読書によってやすらぎを得るという設定も気に入っている。これこそ物語の最大の魅力ではないだろうか。訳者の方があとがきでこういっている。

「物質文明の恩恵というようなものがまったくない土地で、それこそ剥き出しの自然とともに、とりたてて何の希望もなくひっそりと暮らしているたくましい人間たちに対する敬意と憧憬とが最大のモチーフであるような気がします。」

以下は本文から。

「老人は負傷した足の痛みも忘れて彼女を撫でさすりながら、恥じ入って泣いた。自分がそれに値しない、卑しい存在であることを、自分がけっしてこの戦いの勝者などではないことを感じながら。」(注・彼女とは雌のオセロットのこと)

「ときには人間の野蛮さを忘れさせるほど美しいことばで愛の物語を紡ぐ小説のありかを、彼はめざして歩いた。」
by mint-de | 2007-09-25 12:36 | 私の本棚 | Trackback

見たり聞いたり、日々思うことをあれこれと…


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